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安夜に眠る雅
月がやわらかく障子を照らしていた。 山あいの旅館。人知れず巷を騒がせていた妖異を退けた夜、雅は静かに湯から上がっていた。 「……ふう、湯加減も香りも、よきものでしたわ」 微かに湯煙の香る黒髪を緩くまとめ直し、雅は黒地に桜をあしらった薄い着物を羽織っている。 帯はわざと緩く締め、肩を少し落としているため、胸元から白い肌がちらりとのぞく。 動くたび、すそが開き、太ももが一瞬だけ月光を拾う。だが、それすらも作法のうちのように、上品に見えるのが不思議だった。 部屋は、畳の香が落ち着く和室。ふかふかの布団がすでに敷かれ、隣には小さな香台に炊いた“月草の香”がほのかに煙っていた。 「さて……そろそろ、休むといたしましょうか」 着物のすそを膝元でたたみ、雅は静かに布団へ身を沈める。 しかし、そこでぴたりと動きが止まった。 「……これは……いけませんわ」 枕に手を当てた瞬間、その“弾力”に違和感を覚えたのである。 ふわりとして柔らかすぎる——悪く言えば、頼りない。 「この手の、ふにゃふにゃの枕では……安心して、眠れませんの」 雅は枕を少し抱きしめてみた。しかし、腕の中で沈みすぎて、形が崩れる。 ——これでは「いつもの寝所のかたち」にならない。 実は雅、“枕は抱いて寝る”派なのである。そして、その枕は程よい硬さと重み、微かな檜の香りが欠かせない。 「ふふ……修行中でも、こういう癖は直りませんわね」 ほのかな羞恥を覚えつつも、雅は布団の端から、予備の座布団を引き寄せた。 それを重ねて折りたたみ、帯をほどいた着物の上着を巻きつける。 「こうして……はい、これでようやく……しっくりと」 抱き枕代わりに整えた即席の“雅枕”に頬を寄せて、雅はようやくひと息ついた。 深緋の瞳がゆっくりと閉じられ、唇に微かな微笑みが浮かぶ。 ——明日もまた、誰かの穢れを払う務めがある。 だが今宵ばかりは、香と静寂に包まれて。 「……おやすみなさいませ……」 その寝息は、鳥のさえずりよりも静かで、穏やかな夜にふさわしいものだった。
