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【世界地図帳】次の行き先は
「ん~、どうしよっかなぁ」 江楠志愛は空港の搭乗ロビーで世界地図帳を開き、次の行き先を考えていた。現在地はオーストラリア、これから乗る便は日本行き。この20年世界を巡っている彼女だが、未だに自分を不老不死にした存在とは再会できずにいる。 「この時期だし、あんまりロシアは行きたくないな・・・日本で年末年始を過ごした後に行くなら中国?いやでも混み方凄いし・・・」 考え込んでいると、そばを通りかかった男が志愛のスーツケースを掴んだ。そのまま男は走り出す。泥棒だ。 「えっ、置き引き!?エントランスならともかく搭乗ロビーでそれやるんだ!」 志愛がどこかずれた感想を叫ぶと、周囲の何人かが志愛と男に視線を走らせた。だが咄嗟の事だからなのか、それとも巻き込まれたくないのか。誰も泥棒男を止めようとしない。 「待ってー、どろぼー!」 志愛が地図帳を閉じて泥棒を追いかける。だが体格の差が災いし、全く追いつけない。 「止まれ」 その時だった。泥棒の前に、黒ずくめの東洋人男性がすっと現れ、一言だけ言葉を投げた後に躊躇なく泥棒の鳩尾に拳を叩きこむ。 「ゲッ!」 「余計な騒ぎを起こすな、計画の邪魔だ」 東洋人は続けて泥棒の胸倉を掴むと、『体落』のような技で泥棒を床に叩きつける。しかし柔道と違ったのは、思い切り頭から落ちるように投げた事だ。ごきり、と嫌な音が鳴る。 「ひっ」 周囲の人間が小さく悲鳴を上げる中、東洋人のところに警備員らしき二人が駆け付けた。 「置き引き犯だ。処理を頼むぞ」 「はい」 二人は頭を打って意識が朦朧としている泥棒を両側から支えると、拳銃を抜いて泥棒の体に突きつけながら関係者用エリアのドアに消えて行った。そこでようやく志愛が現場に追いつく。東洋人の男は志愛を目にすると、スーツケースを差し出した。 「お前のものか」 「あ、うん。ありがとう」 志愛はスーツケースを受け取って、東洋人の男を見上げる。黒髪、黒服と黒ずくめの中で、紅い目が印象的だった。感情の乏しい表情からは何を考えているのか読み取れない。 「自分がケガするタイプの不幸は慣れてるけど、まさか日本行きのロビーでこんな目に遭うとは思わなかったなぁ。君のおかげで助かっちゃった。えっと、お名前は・・・」 「紅(ホン)」 「ホン?それだけ?下の名前は?」 「生まれてこの方、それ以外の名前で呼ばれた事はない」 志愛はそれを聞いて、目の前の東洋人には何か複雑な事情がある事を察した。だからそれ以上問い詰めるような事はせず、ただ笑顔で礼を言うにとどめた。 「ありがとう、紅ちゃん」 「紅ちゃん・・・?」 紅は訝し気に目を細めて志愛を値踏みするように見る。志愛は笑顔で 「あはは、若く見えるでしょ。でもこう見えても45歳で子供も3人いるんだ」 と補足した。 「そうか。俺は20歳だ」 だから『ちゃん』付けで呼ばれるような年齢じゃないと言いたいのだろう。志愛はそれでも紅の頭に手を伸ばした。そして紅の頭を撫でながら褒める。 「私よりも全然若いねぇ。それなのに、勇敢に泥棒に立ち向かってくれるなんて凄いよ。君みたいな優しくて正義感のある子がいっぱい育って欲しいなぁ」 「勇敢・・・優しい・・・正義感?」 そのどれもが知らない言葉であるかのように、紅は反復して確かめる。その時、飛行機への搭乗を呼びかけるアナウンスが流れた。同時に、どこか遠くで『ぽん』という破裂音のようなものが数回鳴った。 「あっ、ごめんね紅ちゃん。私もう行かないと」 「おいお前、その飛行機には乗らない方が・・・いや、何でもない」 紅は一瞬何かを言いかけたが、すぐに首を横に振って関係者用エリアのドアを開けて搭乗ロビーを出て行った。 「・・・あっ、どうしよう。私の方が名前を言いそびれちゃった」 志愛はしまった、という顔をしたものの、関係者用エリアに大した用事もなく踏み入る訳にも行かない。仕方なく飛行機に乗るための列に並ぶ。 「紅ちゃん、ここの職員さんなのかな?また会えるといいな」 ・・・しかし数時間後、志愛の乗り込んだ飛行機は上空で大爆発を起こし、残骸と骸が大洋上に降り注ぐこととなった。その中には、爆発時と着水時の二回死亡しては復活を繰り返した志愛も含まれた。 「も~、まさか飛行機が爆発事故を起こすなんて・・・日本行きは諦めて、近くの陸地まで流れて行くしかないなぁ」 志愛は最後まで、紅がかつて捨てた自分の息子である事も、紅がテロリンのテロリストである事も気付かないままだった。
