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田んぼの一稲、梅雨を仰ぐ ~出稲式:前線の彼方に~

夜明けの光が薄雲を透かして降り注ぎ、まだ梅雨入り前だというのに湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 田んぼの縁に、背筋を伸ばした一人の少女軍人が立っていた。 ブロント少尉。黒の詰襟軍服にプリーツスカート。左胸には階級章、特技章、さらにはいくつかの勲章まで着けている。 袖には空挺章と冬期戦技能章、どれも田んぼには不似合いな装飾だが、当の本人は極めて真面目な顔である。 「出稲式を、粛々と開始する。各員、心身を正せ……!」 ※なお、「各員」はいない。完全なる単独行動である。 「食の大義、国民の胃袋を満たす任務の第一歩……すなわち、これを『耕兵の義』と呼ぶ!!」 そう叫びながら、ずぶりと片足を田んぼに踏み入れた。 水をたたえた田面に、泥の波紋が静かに広がる。まるで戦場に降り立つような気迫であるが、田んぼにいるのは少尉と、なぜかすでに寄ってきている大きなアマガエルだけだった。 「ふむ……。ぬかるみ、予想以上。だが、この程度で膝が震えては空挺の名が廃るッ!」 ぐい、と苗の束を構えたまま進む。 背筋を伸ばし、口をへの字に結んだ顔つきは、どこかきりっとしている――が、その眉尻はほんのわずかに不安に揺れていた。 すると、遠くで雷鳴がひとつ、低く唸るように響いた。   ***    雲は、静かに暗く厚みを増していく。 空を覆いはじめた鉛色の雲に、風が吹き込み、湿り気を含んだ空気が一段と重くなる。稲光が、一閃。 「……来るか。梅雨前線、前哨戦……!」 水田に一本一本、律儀に苗を植えていくブロント少尉。その姿は滑稽を通り越して、もはや祈りにも似ている。 しかし、次の瞬間。 「ぬああっ!? わ、罠か!? 地雷――いや、ぬかるみが――!」 ずるっ、ぐしゃっ――という音とともに、田んぼの泥が彼女を抱きとめた。 ずぶぅっ! 尻から突っ込むように転倒した少尉。詰襟軍服、スカート、肩章、すべて泥まみれ。 片方のブーツは半分埋まり、帽子も傾いていた。 スカートのプリーツももはや判別不能だが、勲章だけは奇跡的に光を反射している。 それでも彼女は起き上がり、腰に手を当てて空をにらんだ。 「ッ……この程度の屈辱、歴史に刻まれて然るべき……。我、屈せず……!」 鳴り響く雷鳴とともに、空からひとしずく。やがて、雨粒が田面をたたき始めた。 泥と稲、雨と少女。 奇妙で、まっすぐな出稲式は、まさに佳境を迎えていた。   ***   そして――   雨はすぐに止み、雲間から射し込む光が、静かに田面を照らす。 水の中に、等間隔に並んだ稲の苗たち。 整然と、まるで軍列のように、きっちりと揃っていた。 その端に、立つ一人の少女。 全身泥まみれながら、姿勢は正しく、表情は――きりりと、誇らしげ。 「……出稲式、完了。稲、植え揃え完了……!」 稲光を浴びたあの瞬間の記憶もどこか神聖なものに変わり、少尉は整った苗を前に、凛然とした敬礼を捧げる。 その肩先に、泥の名残がこびりついていた。 泥の中から這い上がってきたようなブーツの上には、静かに鎮座するアマガエルが一匹。 そこに歩み寄る一人の女性――富士見二等軍曹。 黒髪ボブ、無表情気味なクールさを残しながらも、今はその口元に微笑を浮かべている。 「お疲れさま、少尉。……まったく、なんでそんな正装で田植えなんか」 軍曹の手には、ふわふわとした大判の白いタオル。 「これは儀式ですから……日本人の食の、命の根源に対する敬意を……!」 「はいはい。そういうのは後でね。ほら、まず顔ふいて」 「ふむ。……しかしこの泥もまた、“戦の勲章”と呼ぶに……」 「顔」 「……はい……」 泥にまみれた少女軍人と、クールな軍曹。 晴れ渡る空の下、整然と並んだ稲の向こうに、まだ梅雨入り前の季節が、静かに移りゆこうとしていた。   出稲式、完遂。屯田魂、ここに在り。

さかいきしお

コメント (18)

Kinnoya

すごい

2025年05月28日 14時26分
早渚 凪

この場における正装とは、『正しい農作業用の服装』を着用するのが正解なのでは?

2025年05月27日 14時54分
うろんうろん -uron uron-

少尉ガンバったニャ!

2025年05月27日 13時50分
T.J.
2025年05月27日 13時45分
五月雨

豊受媛神もご照覧されていることでしょう!

2025年05月27日 13時35分
なおたそ
2025年05月27日 09時06分
白雀(White sparrow)
2025年05月27日 03時45分
へねっと

泥の中にしゃがんだらヒルにやられるよ

2025年05月27日 03時28分

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